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(2006/04/24)

 

 『家畜人ヤプー』は、現在5分冊の幻冬舎アウトロー文庫版で読むことができる。江川達也のコミック版で知っている人は多いと思う。古くは、石ノ森章太郎によるコミック版もあるそうだ。

 現在、ブログの企画第二弾として「書評」が進んでいるが、私は最近あまり新しい本を読んでいないので、残念ながら流行りの本の書評というのができない。ではかつて読んだ本の中の中から選ぼうと考え、色々と迷ったあげく、これを取り上げることにした。理由は単に好きだからだ。

 

 『ガリヴァー旅行記』はしばしば「スフィフトはああいった形で風刺を描いたのだ」という言い方をされるが、だからと言ってその細部の記述に面白みを感じない者はいないだろう。小人の国で船を曳き巨人の国で愛玩されるディテールは単純に面白い。『家畜人ヤプー』は、言ってみればそういう作品だ。

 舞台は地球の西暦でいうと40世紀の未来、完全女権社会の宇宙帝国「イース」だ。イースでは人と見做されるのは白人だけ。黒人は奴隷で、そして唯一生き残った黄色人種である日本人は「家畜人」である。家具や便器、矮人化による観賞用、食肉用など家畜人としての用途は多岐に渡る。当然、内容はエログロスカトロのオンパレードだ。また、「ヤプー」は家畜人としての日本人の呼称だが、これは「Jap」と「Yapoo」(ガリヴァー旅行記に登場する野蛮人)をかけているものである。作品内にはこの種の実に馬鹿馬鹿しい無駄に衒学的な造語やアナロジーが満載されている。

 一般に、人種差別は確実に不快だ。根絶するべきだ。だがここまで徹底されるともはやそれは差別ではない。「日本人としての誇りを傷つけられた」と言う者がいるが、「生き残った黄色人種は日本人」という、ある種の選民意識はどうなるのか? 結局、『家畜人ヤプー』は逆方向で、現行の意識をなぞっているだけだ。もともとSMとして書かれた作品だが、西洋人の女性に踏みつけられたい、というのはSMとしては実に当たり前の感覚なのではないか? 加えて、戦後以来の日本人のコンプレックスと、同時に成長した選民意識。沼正三は日本人の誇りを貶めようとしているわけでもなんでもなく、ただ単に、日本人の意識をそのまま反映させただけなのではないだろうか。

 つまり、『家畜人ヤプー』は、おそらく、思想的には何も主張していない。現代社会への風刺や皮肉と読める箇所もあるが、それはガリヴァー程に上手く作用しているだろうか?

 

 その上でなおこの作品は圧倒的に素晴らしい。別に人非道だとか言う人に反論はしないが、家畜人の用途の想像力や馬鹿馬鹿しい駄洒落は面白いとしか言えないのだ。

 

 

 書評というかただの紹介になってしまったが、とにかく三大奇書の名に恥じないものすごい本であり、面白い。

 

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