(2006/04/19)
『書評というよりは寸評』/文藝春秋4月号『ルポ下層社会』の省察・序文
『書評というよりは寸評』
どうも皆様こんにちは、もしくはこんばんは、あるいはおはようございますかもしれません。2月以来の登場となる伊翁です。今回は文芸部内で決まったブログのテーマとして各部員が最近読んだ本の書評をブログに記載することとなり、私がその初回を預かることになりました。実際問題として先頭バッターは辛いものです。そうです皆の反応を探る斥候にならねばなりません。まず何の書評を書けばよいのか解らない、というより前任者がいたとしてその書評を書いた前任者が適当な文学派に属する作家について書評を書いたとすれば、その作家の同じ作品を読み違う見解を書く、その作家の違う作品を読む、またはその作家が影響を与えた作家の本について書く、はたまた違う味が食べたいと全然違う作風の本の書評を書く、そして前任者の書いた書評を書評する(賞賛するにせよ、同意するにせよ、批判するにせよ)など色々面白い事が出来るし、楽なのですが残念と言うべきかそんな事は斥候には出来ません。(斥候は死んでも本隊の誰も助けには来ません)次に他の部員がどんな本の書評について記事を書くか分からないこと、更に最初から変な本の書評を書くと後続に影響を与えてしまい何となく書きづらい空気を作ってしまうこと、ついでにいえば後の反応が今一掴めそうもない本の書評についてもいえます。
・・・で以上のことを考慮した上で実際このように記事にする上で以下の構想がとりあえず今回はボツとなりました。
1.戦前から存在した各会社の社史についての書評(例えば旧財閥系の会社の社史の書評など)
2.スタニスワフ・レムの『虚数』のように自分で架空の本の書評を勝手に作り出して創作作品にしてしまい、部の皆様にほんのちょっとした悪戯と言うべき意趣返しをすること
3.1にも言えるが文学系から遠い書評
ということで私もその時には思いつくネタが無くなり、頭を抱えて再考すること幾日と過ぎ、段々と締め切りが迫る中、所属する大学の先輩に会う約束がありその際に世間話をするような砕けた空気になった場で今回の書評の記事の話が出た。更に時が過ぎ、桜は散り大学の授業が始まり、講義で早速この話(しかも来週からもっと詳しくだとさ)、私はため息をつきたくなり、心の底からもう勘弁してくれとも言いたくなった。何故かと言えばこの記事を書いているのは足立区民である。つまりこの記事の記者である佐野真一氏からすればかの地に「存在している者」であり、私からすると足立区で「暮らしている者」である。なにしろこの記事には住人としては結構辛い事が書かれている。住まう者として現実直視をしこの地について語る、書くというは「勘弁してくれ」というある現実からの逃避とも思えることを脳裏によぎってしまったこのブログの記事の記載者からすると今回の書評は一種の自傷行為なのであろうかと考え、腹の中でムズムズした感じがする。いや序文にてそのような疑問形を投げかけるのはやめよう。そしてぐだぐだと無駄なことを言っていると思われないよういい加減本題に入ろうと思う。
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本文
先に更新した無駄の多そうでありいかにも長そうな序文を読むのが面倒であると言う方はここから読んで頂いても構いません。なお今回のこの記事の書評に関しては中の人としては仮に今回書評を行う足立区の社会層というようにしてみると
A-1層・・・足立区に昭和40年以前(高度経済期より前とも考えてよい)からいた居住者の自営業者など(昔の言葉で言えばいわゆるプチブル)
A-2層・・・足立区へ昭和40年以降に流入した都心部に通勤する新中間層(これも今のご時世ではどうも古臭い言葉のような気がするのだが)及び階層としてはA-1層と同一の者だが流入組
B-1層・・・足立区に昭和40年以前から居住し、地元の工場に従事するブルーカラー、及びサービス業に携わる者
B-2層・・・足立区に昭和40年以降に流入し地元の工場に従事するブルーカラー、及びサービス業に携わる者
と4つの区分にした内、B-2層の第二世代でありますので、その立場から見ています。後、自分のブログなどがもし有ったとして、その場にて記載される記事であるとすればこのような注意書きはしないのですが中の人は
「他大学から文芸部に参加している現役の大学2年生」
です。予め言いますが「東大」という権威というのを利用しようとしているのではという批判もあるとは思いますが当方としてはそのような悪意は一切ございません。以下の文に対しては以上のことに同意してもらった上で御覧下さい。
まず、初めに皆様に述べてしまわなければならないこととして私はこの記事を書いた佐野真一氏はどのような作品及び記事をこの記事以前には書いているかどうかは全く知らないので氏の以前からの傾向等を把握してはいなく、純粋にこの記事からのみ判断したことを頭の隅にでも置いておいてほしい。元々私は今回文藝春秋を手に取ったのも、この記事を足立区のことがやたら凄く書かれているという噂を人づてで聞いてから読んだので実際には発売日からもう1週間程経っていました。そのような事情からこの記事を読む際にはある種の覚悟というものが有ったのだが、やはりこの記事を最初に読んだときには「ついにこのようなことが堂々と書かれる様な時代が到来したのか」という印象が持った。おそらく記事を書いた佐野氏は小泉総理の構造改革が結果として庶民(いや庶民でない、記事中の彼らは貧民だと言いたい人もいるであろうが)はいかなる状態に置かれることになったかというのが本来の記事が読者に対して投げかけたい意志であるのだろうと思うのだが、記事読了後しばらくして、序文のような状況も踏まえて率直に思ったこととして何故に保守層を中心に購読層を持ち、全国誌として販売力がある総合誌の文藝春秋がこのような我が区に対してのみ(最もこれが他の地方都市であったとしても同じような批判をするであろうが)に集中砲火とも言える様な記事構成にしたのであろうか?何故にここまで今回の記事の反響が多かったのであろうか?まずルポなのであくまでも記事の内容は事実を重視しなければなりません。記事自体としては個人の話等を含めましてもテレクラ、売春の類の件はまだ私自身が青二才であり、そのような話は聞いたこともないのでわかりませんがその他の事はまあ~首を縦に振るしかありません。なにしろ現実この記事を書いているこの裏で「我が家も就学援助を受けたのか?」などとあの記事を読みながら話を母親にしてみると軽い調子で「一時的には受けていたよ」と返すのですから貰っている事よりも「そのような調子で返されてしまうとは」とその方がショックです。本当に、ねぇと言ってやりたいです。このような笑い話にするには少々黒いことまでを踏まえてまずは今回のこの記事を読んだ所考えられる足立区、及び記事そのものに対しての反応として私の無い頭を捻り出して考えたみた中
1.主にA層からの立場からこのような批判をする人間が多いと思われるが足立区は実際そこまでひどくはない、つまり記事には少々誇張が有ると考える派
2.これもA層からの批判から記事のような事態を引き起こしているのが主にB層に位置する人間たちによって起こされたことであるから自分たちには関係ない、奴等が原因だと思っている派
3.『政治的』批判・・・賛成にしよ、反対にせよ小泉構造改革関連として
4.B層(最も当事者として世間話をしていてもこんな話は地元では出たことはないのだが)からの記事に「書かれた」こと自体への受容もしくは拒否などの何らかの反応
5.能力価値の平等という視点で批判を行う派
6.これを最も心配しているが足立区の元々の負のイメージが更に増幅する派
7.その他色々
などが有るのではなかろうかと推測しました。ここで足立区の負のイメージの代表的な一つとして記事中に語られる都営団地の住人としてB-2層の第二世代であると自らを規定した私はここである小説から以下の文を引用して、先鞭をつけることにします。「これからはもうこういった種類の街が建設されることはないだろう。それは政府が言ったことだ。なぜなら、この計画は失敗だったからだ。郊外のこのクソッタレ団地は・・・・・・。政府のお偉がたはようやくそのことを認めたのだ。団地の生活は暗い。誰もが自分勝手に生きて、住民同士のコミュニケーションなどありゃしない。ウサギ小屋の住人たちが、ところせましと観葉植物の鉢を並べ、レンタル・テレビを見て、ローンで買った車でお出かけする。一種のゲットーだ。」(ジャン・ヴォートラン作、高野優訳『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』p40.3行目~p40.8行目 草思社 1995.1 )これは足立区の都営団地の説明であろうか?いやこの本文自体はジャン・ヴォートランというフランスのロマン・ノワールの作家がフランスの移民や中低賃金層を対象とした団地に対しての説明である。だが、これはフランスであった…。いや、こうも呼べそうな所は日本にもある、そうやはり我が区の都営団地だ。「あのオンボロで、もしくは税金で食わせてもらう立場だというのにと後ろ指を差されながら駐車場を見ると何故か結構高そうな車が停めてある、ロビーを夜遅く帰ってきて目を見ない様にしながらもどうしても目に入ってしまうあの光景だ。地元のワル、不登校児が夜な夜な集まって2時、3時まで騒いでいたとしても誰も注意しない、出来ない(最も奴等が怖いから私も)、自治会選挙にでも当たらなければ知らん振りとばかりマンションで暮らしているかのごとく振舞う・・・そう奴等だ」と私にも当然指を指される。最も記事中でも触れているように昭和の時代に建造された団地は中層のサラリーマンというある程度ましな階層がいたからこそその方々が現在でも居住している場合、一応指導者層がしっかりしているということで自治会がちゃんと機能している場合も多く、その場合は廃れることは少ない。真に悲惨なのは平成になってから建造された団地でありそのような場合、団地に入ってくる外国人、母子家庭などマージナルな人間も含めてかつてより収入、階層の低い住民層が形成されると自治会という形で恒久的に維持できるだけの基盤としての運営層、それができないまでもせめてルールを守る人の割合が薄くなり、段々と管理能力が無くなって行く。それを見て嫌気が差した維持できるだけの住民は逃げ出し、新しく別の人が入居する。この過程を繰り返してゆくと新しく入居してくる人の中でもまともに動ける人の割合が減ってゆき更に管理能力は衰えていってしまうのである。このような状態だと住民からすればそれは勝手に動きたくもなる。現今は個人主義、自己責任などという言葉が流行るご時世だ。何故ルールを守らん奴等に自治会は対策を行うことが出来ないのか、連携という言葉を叫んでみたところで結びつける役がいない、そもそもこれもルールを守らん奴等の世界とどんなに小さいものであろうと自治に参加するもしくは統治をする側のはずである自治会の定めるルールに服している我々の世界とが違うのだから結集することなどできるはずはないではないかという理論である。ん、この論理どこかで出なかったであろうか?そうだこれが文藝春秋のルポでふれねば成らない最大のことだ。今回の書評で「足立区」とはという定型句にこのままではこの記事が語られることに成りかねないこととそれに対する抗議をもすでに予想される反応その1、その2そしてその6で触れている。このように問題としては今回のルポで改めて足立区がこの場合文藝春秋の読者層が我々と言う世界から切り離されることそう先程のロマン・ノワールのように小説、ロマンとあたかも別世界のように現実視の対象から外れており、B層はマージナルとして扱われているのではないだろうかという心配だ。だがここで私は記事を載せたことそれ自体の文藝春秋の判断は特定地域へ偏った姿勢などに対してやその記事が社会に与える影響力などへの倫理の欠如などの問題等を言う人もいるであろうがそのことは全然問題視しない。そう問題なのはその2またはその6のような潜在的姿勢としての反応のようになぜA層は自らを我々の世界に置き、B層を彼方の世界に置くという内在意志の姿勢が成立するのであろうか。反応の大きさというのは内在意志と有していたことが表層世界へと浮上したことへの「ざまーみろ、税金の無駄遣い連中が!」という感情レベルの問題まで入れた上での歓声なのであろうか。このルポはいやルポであるからなのかもしれないがこの記事はあのような扇動的ともいえる見出し、そして衝撃とも言える反響を引き起こしたのにも関わらず、足立区の貧困については語ってもその回答がどうも得ることが出来ない、理由はわかった。なら彼方はどう「したい」という点がやはり見えてこないのが一番の問題であり、これだとやらずぶったくりである。もし氏の見解が今後知ることができれば本当に区民としてはありがたいのですが。最後にこれだけは区民としても足立区を捉えたいという方々も注意しておかなければならないかもしれない。もし区民である我々もここでは他者と言う意味合いである我々がロマン化された視点で真に足立区というモノを目にやらないようになるとどのようになるのであろうか。そうなるとそのことに再度気づくといったことになったその時にはもう底光りのする下層社会などというまだ良い印象の持てそうな気がする世界が横たわっているのではない。住まう人として第二世代以降はそこに在る人として暮らしていくしかないのかという思いからもう闇に覆われて底すらもう無いのであろうかという程に手にとることが出来ない、ようやく見つけ出すことが出来たとしても病理に蝕まれてしまい、そうしたらもう堕ちてゆく下層社会しかもうすでに残ってはいないのである。そうならないことを区民として希望したい。
ブログの書き手である側として結構過激なことを述べてしまったかなと思っています。ちなみにこの記事にはルポの記事で予想される反応その3にあるような『政治的』批判の意図(ここ最近のグローバリゼーション化に対する批判など)は全くございません。そうです我々の第一世代からすれば大学にもいけることが出来るのですから。